みらブログ

ファイアーエムブレム好きのヒーラー(気功師)永野晋太郎のブログ。京都駅・大阪駅周辺に出没。

苫米地英人、岸田秀、今西錦司

数週間前に書いたメモ、もう発酵しているけど一応投稿。

・数式やマークや場所や形に固有の気があり(これも僕の立場からするとこれも書き換え可能という見方になるけど)、森林欲や樹木で自身との気の交換(循環)ーがありうるとして、それらと同様のことが起こっている可能性。

・音楽で開花する子もいれば、絵だったり、なぜ分かれるのだろう。絵を学んだことがある子は絵の方向に出やすい、ならばわかるが、ここは左右されていない感じがする。全員が共感覚チックなのは認める。

・絵(脳の右側で描け)や、スポーツの腕の角度や胴体の角度を決めるフォーム学習、音楽をBPMで捉える類は僕がなんとなく「外形」系(外見)と判断している。

・低い抽象度でカッチリ反復系のメソッドでは天才は作れない

例えばダヴィンチやピカソや、能力開発分野で右脳といわれるような、いわゆるナチュラルにジルボルトテイラーのような、トランスに入って筆に身を任せるような感じとは少しズレている。初期の高岡理論で否定されるようなフォーム学習であり、作って反復して覚える現代スポーツでもありきのものと、メソッド自体の雰囲気(空気感)が似ている。

物理抽象度に近いレイヤーをいじっている。

・植芝盛平は「動けば即、技になる」といったが、ペンを持てば小説(or絵、漫画etc)になる。マイケルジャクソンの作曲プロセスも同様のように思う。

 


マイケル・ジャクソンの作曲方法

それもパターンであり、フレームだという系統の反論は受け付けない。だって作れてないから。低い抽象度のパターンをなぞらせて指導するというのが現代の限界のように感じる。

・落語家の場合、同じものをやっても別物になる。人によって気の仕様が変わる。

・サブリミナルはRゆらぎか?→Rゆらぎとは簡単に説明すると「意識にあげる」になるが、ならサブリミナル(意識に上らないけど、書き換える)はどうなるの?、わかりやすく説明してちょ。

・例えばスプリントトレーニングマシンがあるが、こういう物理法則、物理身体を、テーピング的な発想でやるのは、自分の感覚からすると相当ズレてる。

 

・AIにデータぶちこんでおいて自己成長を遂げるように、自己成長するもんが欲しい。AIが意識をもちうるとして(チューリングテストのようなことではなく、植物にも意識があると仮定するような感じでの。)

常にAIに今の自分に必要な気功技術(ソフトウェア)を開発させて、延々かけ続けるような感じ。今流行ってるaiは将棋のルールを破らないように、ルールを破らないわけだけど。

・昔、気功技術の自動販売機というアイディアを出していた方がいたが、自己成長的技術を発展させたい。アバターや結界などの議論を踏まえた上で、それとは違う形。プログラミング、AIを使った未知の技術は出てくる。裏と表の融合。

・飛脚の情報や究極の身体であるマイケルジョーダンなどの情報をぶちこんでおいて、それを考えさせる。

・情報の映像化(集合的無意識)に意識の跡が残っており、それを拾うことが可能であれば、それをAI的なもんに拾ってとってきてもらってもいい。あとはそれを非言語技術として自分にかけ続けるなど。

・意識を介在させないパターン認識はいらず、パターン認識を超えたパターン認識がほしい。AI側の情報身体が自己成長を遂げて延々、彼(?)が情報をむさぼっていく、そのいわば気功でいうアバターのような存在。ヒカルの碁の「sai」がリアルにいる感覚。いやでもそれアバターやんというところにスコトーマを感じる(?)


・究極はメンタルブロックを壊すことが必要で、視力2.0がいいという世界で、いやいや他の民族で視力6.0がいるよと言われたら信じられないが、いるとわかれば信じてしまう。ベリーロールから背面跳びにいくような感覚。

 

・魚が陸に上がることや、カンブリア紀の爆発は、ゴールにより。岸田秀さんや、今西錦司もゴール設定という言葉を使わずゴール設定を書いている。

「変わるべくして変わる」

 


・ジョブスは作品に強いこだわり、譲れない部分があったが、絶対こだわりてー!という点にこだわる。

俺であれば身体性・・・といいたいところだけど、それも弱くなってきた(?)、才能を作るシステムという点を絶対に抜かない。が、これも「こうでないと(こういう伸ばし方でないといけない)」と相手に押し付けている感あり。整理はつかない。

・DS理論にしろなんにしろ「降ってくる(きた)」感がある。過去の最適化を本当のひらめきとはいわない。

本当のひらめきを得るには、自分の役割を全うする必要がある。これをしないと「降ってくる」がないというか、自分だけのことにフォーカスしたゴールでは、そこまでたどり着かない(選ばれない)感じがする。

自分にとって「才能」と陸上競技は目標と同時に、精神面の歪みが出ている部分だと思う。こうでないといけないという他人への押し付けが見られる。団体は?国は?老人は?赤ちゃんは?他の国の人間は?、才能を伸ばすことを諦めた人間の価値観を否定しまっては、その人を除外することになってしまう。

その人の本当の意味での人生のあり方をおったときに、「それとともにある理論(や生き方や思想)」みたいなのも出てくる。もうあるのに出会っていないのか、どうなのかは不明だけど。

自分だけの独自の理論(など?)に出会える自分になるともいえる。

必ずそういうものがあると感じる。陸上とも才能とも、あるいはヒーリングなどとも縁を切る感じにも思えないが、このルートとは別の人格(別のゴール)がないと先に進めない感じ。


・個人の能力に絞りこんで考えたい自分と、それはおかしいという自分がいる。集団Aという才能を伸ばす場合?

・才能を伸ばすことを人に強要している感がする。

 

・バランスホイールはこだわらない。ルーのをひきずっている感じがするので、すっとばして、

・ジョジョの人はジョジョ屋、刃牙の人は刃牙屋さん、一見、絞り込みすると抽象度が下がるような気はするがそうならない例はあり、「天職」「天◯」みたいなのがある。